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実際の体験談例(本人、家族)




アルコール依存症に気づいた、そして認めた。

東京都小金井市 Iさん (男性・本人)

平成20年(2008年)10月27日、国分寺の公園のボランテアをしていて、自転車で向かっていました。八時二十分に事故がおきました。
行く手の歩道に乗り上げた幼稚園の送迎バスが止まっていました。五人の主婦が並んでいたから、五人の子供が乗り込んだのでしょう。私は車が出て行くまで自転車で止まって待っていました。
バスは急に90度回転バックを始めました。危ないと後ずさりしたが、バスに張り倒され、床下に引きこまれました。運転手は事故に気づかず、右手には、前輪が迫ってきていました。主婦が大騒ぎして、やっとバスは止まりました。
運転手は被害者の私を救助しませんでした。「17年の無事故無違反が終わってしまった」と、仕切りにつぶやいていました。結果的には幼稚園のバス運転手の職をクビになってしまったようです。110番通報もしない。運転手は自分のことしか考えていませんでした。
膝でかかりつけの整形外科に通院することにしました。
通院の経験があったのと、先生が顔見知りなのが良いと思いました。レントゲンや処置を終えた先生は「アルコールは控えるように」と一言。私も怪我のためしばらく禁酒しようと真剣に思いました。しばらくすればまた飲めるからと・・・
禁酒して三日目から、手足のふるえが出て、翌日には日中に何度も失禁するようになりました。不思議なのは夜の失禁はないのです。大量の寝汗をかき、パジャ マやシーツを一晩に三回も替え、寝つきの悪さとともに完全に寝不足になりました。寝不足によるのか、気分はイライラでガンガンしました。主治医と会話して も、突っかかる話し方をしていました。幻覚を見るようになってしまいました。右の壁に「フナムシ」が、固まっている。左に女性のヌードがずらりとならんで いる不思議な構図でした。
この幻視は虚像であるのに、どんな行動をしていた時に発生したかは思い出せません。でも虚像は二年半たった今でも、脳裏に浮かんできます。実像ではないのに脳はきっちり記憶しているのです。
主治医にもろもろの症状を毎日訴えるが、頭と腰のMRI撮影で異常が無いと言われ、原因はわからないとまで言った。まさかアルコールが原因とは私も医師も気づかなかったのです。
病名を見つけようと、私はインターネットで諸症状を入力、検索しました。そして見つけました。症状は体がアルコールを要求するサインの離脱症状と判明し た。そして病名は「アルコール依存症」という言葉が浮かび上がってきた。はじめて聞く言葉だった。「アル中」なら知っているが・・・
逆検索したら意味合いは同じことだとわかった。禁酒する直前のアルコール量は毎日500mlのビール6本、焼酎をコップに2〜3杯飲んでいました。ここ何年も休肝日などはありませんでした。
 
定年退職を四年早く、56歳で職場を去って、毎日が日曜日になった。最初の頃は公園花壇の花ボランティア、料理教室、蕎麦打ち教室などに通い、家での食事 のしたくをするようになった。主夫である。しかし、暇な時もあり、アルコールを日中から口にするようになりました。夕飯の支度もいい加減になり、肉も魚も 野菜もごちゃまぜてなんの料理かわからないものまで作るようになり、夫婦喧嘩の原因にもなった。
完全に今で言う定年アルコール依存症に陥ってしまのでした。
●一杯だけといっていっぱいでおさまらない。
●いつも「今度こそ止める」という。
●酔いがさめて何をしたか覚えていない。
●ボランティアを休む。
●外で飲んで他人に迷惑をかける。
●朝や昼間から酒を飲んでいる。
当時は、アルコールでこのような行動がありました。自分にアルコール(依存症)に対する予備知識があったら、もっと若い時代に気づきがあったかもしれな い。いずれにしても、60代でやっとアルコール依存症に気づきました。それも引き金は交通事故に合ったことだったのは幸運とも言えた。
アルコールを止めて(禁酒)三日目からいろいろな症状が出始めたこと、症状も発生期間もネットのデータとぴったりだった。標準的な離脱症状でした。
ネットでアルコール依存症の症状に精神依存、身体依存、耐性の形成が書かれていました。
一旦、お酒を飲み出すと適量で済ますことができず、ずるずるいつもの量まで飲んでしまう精神依存。禁酒をして発生した離脱症状は立派な身体依存。新婚時レ ギュラー缶1本だった晩酌は、事故日の前夜はロング缶6本、足りなくて焼酎2〜3杯まで酒量が増えていたのは、立派な耐性の形成でした。
 
さて酒を飲み始めたのは、二十一歳から。団塊の世代の私は、仕事の盛りの時期はちょうど高度経済成長時代で、好景気にわいた。仕事はいくらでもあった。給与もうなぎのぼり、二度のオイルショックがあったが、多品種の低価格のアルコール類も大量に販売された。
職場では昼飯にビールの1本は当たり前でした。昼に導火線に火がついているから、夜も当然居酒屋へ、キャバレーへ、と繰り出す毎日でした。そんなことを やって、四十年。病気にならないのがおかしいといわれても、政府が許可している酒を飲んで病気になるなんて、ネットで検索するまでわからなかった。
ネットで理解したことは、まず病気であること。でも治療すれば治るかというと、断酒すれば回復はするが完治しない。慢性の病気であること。死ぬまで断酒す れば、依存症による内臓疾患以外で死を迎える事ができること。また、アルコール依存症は否認の病であること。酒を飲み続ければ進行性の病でもあること。
それからさらに三日間、ネットでどうすればよいか検索しました。断酒しか方法がないことがわかった。わかったが、認めたくなかった。でも
○アルコール依存症は認めた。
○みずから酒を止めることを決めた。
○断酒会に入って断酒するしか方法がない。
これは最初の断酒日記に書かれていました。本当は、自ら断酒して、断酒会に通って断酒継続をしていくのが正解の様な気がしています。
今でこそ、市役所の障害福祉課や保健センターで酒害相談をしていることは、断酒会に入会してから知った事です。ましてや病院とか駅前の心療クリニックなどに相談に行くなんて、全く思いつきませんでした。だから「断酒」も「会の存在」もネットで知る事になりました。
全断連のホームページは読むのに一日かかりました。ネットサーフィンは当時真剣でした。病気を理解するには今でも、全断連のホームページは優しく、わかり やすいと思いました。東京には相談箇所が二つありました。私の小金井市は、東京多摩断酒連合会と判明しました。そのホームページの各ページを一字も逃さ ず、最後の体験談まで読みました。
「メールはこちらまでどうぞ」から入り、氏名などの概略を記入し、メール送信、入会した次第です。> http://homepage3.nifty.com/tama_dansyukai/Top_Page.htm
 
第1回目の例会は地元小金井例会に出席しました。当時、私は断酒会で断酒の訓練をすれば、ある期間後には少量飲酒できるのではないかと、いう趣旨の話をし たようだ。アルコール依存症の進行性の病。いってきも飲まない断酒しかないと思いつつも、やっぱりいつか飲めるだろうと否認していました。
そんな、今では間違いと言えることを、二度ほど話をしたと、冗談交じりに断友から懐かしく聴かされます。
入会してよかったと思います。私は三本柱の通院、抗酒剤の二本はありません。一本柱の断酒会で勉強もさせていただき、危険箇所や危険物には近寄らない事も学びました。
隣の酒屋、コンビニ、スーパー、ドラッグストアには用事のない限り行かない。特にコンビニは絶対入店しない。
職場でバブル華やかな頃の昼食に、店に入って座ると同時に『ビール』と叫んでいた、ウナギ屋、日本料理、すし屋、居酒屋にはアルコールとセットとなりやすい店です。現在は入店しません。
無意識でアルコール類に接していると、必ずスリップすると思います。スリップを防止するためにも次の事項に注意していこう。
●心身の不調を読み取る。
●ストレスに注意する。
●否認に注意する。アルコールを意識する。
●仲間と離れない。
このようなことに意識をして断酒をすることが必要だと思っています。
 
断酒会に入会し、ブロック大会や勉強会に出席して多くのことを学びました。
他の会の例会やブロックや勉強会ではここに少し書き出してみます。
1.医師は家族の話を聞いただけで「アルコール依存症」と判断することもあるそうです。何を基準にアルコール依存症と判断するのでしょうか。疑問でもありました。
精神依存、身体依存、耐性の形成、他人への迷惑、飲酒の時刻、場所(TPO)などが参考になるそうです。
2.精神病院の入院患者の方々が、都内などの例会に出席されます。そのとき、「まだ何も分からないので、今後ともよろしく」、という挨拶をよく聞きます。 病院内では「酒の習慣性」、「アルコール依存症」とは、「回復への道」、「精神病概略」などの教育はいていないのでしょうか。90日間も入院していれば、 教育されていると思うが。
3.断酒会へ家族が出席し酒害者に対応してきた話は、私たち酒害者に痛烈に響きます。酒を飲んだ私を含めた本人を前に、畏怖や驚異を感じた家族の心境の話は非常に参考になります。私自身の反省の材料になります。
しかし、多摩断酒会で酒でなくなった夫の姿を、例会出席者の中に探していると言う方もいます。何か気味悪ささえ感じました。はたして正しいのでしょうか
4.「わかしお大会」でサラリーマンだった方が、朝2〜3本のワンカップを自動販売機で買い求め、その場でぐっと飲んで会社へ行く。仕事はまじめにすべて出来た、勤めたと話をしました。アルコール依存症者はアルコールが入ったほうが、
・仕事の効率向上
・作業の安全性の確保
・事務でしたら計算ミスは無い
この方の体験談は勘違い、思い違い、うそではないかと感じました。依存症者は離脱を防ぐために酒が必要であって、酒を飲んでまともに仕事が出来るわけがない。
依存症者のいうことは本当なのでしょうか。単に8時間会社にいただけの状態だったのでは。周囲も分かっていて、勤務していた状態とはいえなかったと思いま す。もし、アルコールで能率向上が図れるなら、会社は酒を配ったほうが、収益性向上につながると思いますが、配るわけはありませんよネ。一種の否認です ね。
 
 今は多くの仲間たちの支えもあり無事に断酒継続しています。両親が立て続けになくなったのですが、酒も口にせず素面で送ることができました。これも断酒会の仲間、大会や勉強会での仲間の支援のおかげと感謝しています。

以上



私の体験談

東京都福生市 Yさん(男性・本人)


 私は現在福生で体力作りと、病院のデイケアに通院しながら断酒会に参加しています。

 昭和26年5月15日生まれ、親、兄弟に甘えて育ち、世間を知らず、わがままに東京に憧れ、家出を繰り返し、高校も1年で中退して、 そして、親に自衛隊へ入隊させられました。

 酒を覚えたのは、この頃からでした。最初は弱い私でしたが歓送迎会が多いため、いつの間にか酒に慣れ、それと共にマラソンがどんどん速くなっていきました。 この頃は若さもあり、遅くまで飲んでいても対抗リレーやマラソンの選手に選ばれ速く走ることができました。 入間基地にはその頃4,000人位いましたが、どんなに飲んでも10番以内には入賞しました。しかし、酒の楽しさを知ったのもこの頃でした。 歌の文句にもありますが、春、夏、秋、冬と酒の楽しみを知ってからは、何かと理由を作っては飲み続けました。

 結婚については何も考えてはいませんでしたが、家族は結婚話を進め、姉の紹介で1回デートをして基地に戻ってきましたが、特に考えてはいませんでした。 ところが先方が返事を待っているようなので生返事で承諾してしまい、1か月後には結納、結婚とトントン拍子に事が運んでしまい、 いつの間にか結婚生活が始まってしまいました。

 しかし私は通信員なので変則交代制で朝帰ったり、夜帰ったりと不規則な帰宅を繰り返し、話らしい話ができず同棲生活のような日々が続き、 結局、結婚生活が半年ほどで離婚と決まってしまいました。

 私はケジメをつける意味で自衛隊を依願退職し、故郷にも帰らず、東京で頑張ろうと決めたのですが、楽な道、楽な道と進んでいってしまいました。 とりあえず新聞配達を始めたのですが、朝が早いとか、雨や風の時辛いとか、言い訳を考えては酒を飲み、酒に頼る気持ちが強くなっていきました。 さらに金への欲望もわき、ギャンブルの楽しみも覚え、セールスの方が実入りが良いと聞きセールスの会社へ転職し、 当初は人に負けまいと一生懸命訪問して回っていましたが成績が上がらず、フッと考えて、客をからかって気軽に話してみようと思い、 気合いを入れるために酒を飲んで、一軒、一軒回って、ウソ八百を並べ立てお客様を褒めちぎり、 年寄りには同情するつもりをする等して日に日に成績は上がっていきましたが人間性は善から悪へと変わり、もう何もかも悪い方へと向かってしまいました。

 それからは仕事へ行くのもサボリがちになり、朝から酒を飲み、昼は気合い酒、夜はネオン街を彷徨い、泥酔状態が続き道路に寝たり、 公園で寝たり、警察署へ泊まったこともたびたびありました。家族の心配を他所に、自分の欲望の赴くままに行動する状態が続き、 もう帰る場所もないとサジを投げるほど、酒に踊らされる毎日でした。

 その頃、父が入院していると聞き実家へ帰り入院中の父に会うと、父は私の顔をジッと見ると、横を向いてしまい涙を流していました。 その父も亡くなり、さらに私を一番可愛がってくれた次女も私の事を心配していましたが糖尿病で目が見えなくなり足も切断され、 その後亡くなったと聞き、自分のせいだと頭が割れてしまいそうになり涙が止まりませんでした。

 当の私は肝硬変で肝臓がメチャクチャになり頭は錯乱し「もう、どうでもいいや!」と死を考えましたが、自殺するのが怖く、 途中で酒を飲み続け公園のベンチで倒れていたところを、鶴ヶ島の福祉の方と保健所の方が探し当ててくれ、医大へ救急車で運ばれ入院、 手術と静脈瘤破裂寸前のところを助けていただきました。気が付くとベッドで両手、両足を縛られ幻覚、幻聴状態が続き、様々な地獄図を体験し、 今思い出すと、最後には父が「それはオレの息子だ!」と天上の方から来たのがわかり、自分自身を取り戻すことができました。

 そういう状態が1ヶ月ほど続いたと思います。それから静脈瘤のコブを焼き潰す手術を3回に分けて行い、2回目の時は血が引いていくのをハッキリ感じ、 自分自身に「ガンバルんだ」と言い聞かせ手術は無事終了して退院することができ、鈴木慈光病院へ転院しました。

 しかしそこは、今まで見たことのない異様な世界でした。ただその病棟では私の話に耳を傾けてくれ、開放病棟へすぐに移してくれ治療に専念することができました。 6ヶ月ほどしてアパートが見つかり無事退院してやっと一安心したのですが、アルコール依存症のため世間の荒波がドンドン押し寄せ、不安と孤独に耐えきれず、 病院へ再入院しました。数週間すると落ち着き始めたのですが、先に退院した人たちや親友が数多く亡くなっていることを知り、 ジッと3ヶ月一人だけで断酒を続けようと決心しましたが無理だということに気付き、東京立川断酒新生会の会長さんとお会いし、入会させていただきました。

 今は多くの仲間たちの支えもあり無事に一歩一歩前進しております。昨年は母の88歳の誕生日にも呼ばれ、久しぶりに長女、長男、 四女とも再会することができ、応援してくれています。これも断酒会の仲間、そして福祉また保健所、さらにいろいろな方々の支援のお蔭だと深く感謝しております。 これからは、アルコール依存症で苦しんでいる人たちの陰となり日向となって手助けしていきたいと心に誓っております。

 皆さん、どうもありがとうございました。

以上



父が断酒会に入会して

東京都八王子市 Eさん(女性・家族)

 私が断酒会を知ったのは、6年前のちょうど今頃でした。私は就職活動や卒論製作真っ只中の大学4年生になる春でした。父のお酒の飲み方がおかしくなり、 家族みんなが疲れきっていました。私には、兄が一人いますが、就職し都内で一人暮らしをしていたので、その部屋に母と二人で逃げ込みました。

 それまでは、父がどんなにお酒で問題を起こしてもただ酒癖が悪いだけで、お酒をやめればすべての問題は解決するんだ、という風に簡単に考えていました。

 でも、実際に父がアルコール依存症であることを私たち家族が認めて初めて、回復につながったのだと思います。

 兄の部屋に逃げ込んだことで、私たちは父がアルコール依存症であることを受け入れ、問題を克服するにはアルコール問題を専門に扱うグループに相談する必要があるという結論に至りました。

 そして、父の友人でお酒の心配をしてくれていた方が、断酒会というものがあるから一度行ってみるといいよ、と国立の断酒会を紹介して下さいました。 その方自身は、断酒会の会員ではありませんが、会長のお知り合いで、連絡を取って私たち三人と一緒に例会に付いて来てくれました。

 私と母と兄の三人で、藁にもすがる思いで参加した初めて見る断酒会の印象は、不思議なものでした。初めて見学に来た私たちのために、 家族向けの話をしてくださった方、小さな女の子を連れて出席されていた女性で、お酒の止まらないご主人に対するやり切れない気持ちから涙を流す姿、 不安な毎日を過ごしていた私たちに、きっとお父さんはお酒をやめてくれるよ、と優しく接して下さった方、本当にこ の人たちが、父と同じように狂ったようにお酒を求めていたのかしら、父がこの人たちのようにまともな人間に戻れるのかしら、 とまったく別世界の立派な人たちのように思えました。

 初めて例会を見学した日から間もなく、酒が切れた父に断酒会というものがあってそれに参加したこと、父にも入会してほしいと伝えました。 拒否されるのでは、という心配が大きかったのですが、あっさりと参加することを承知し、参加したその日に入会したのです。 それには家族みんなが驚いたし、これでやっとお酒をやめてくれると簡単に考えていました。

 でも、そんな家族の期待と希望はお酒の前では無力だと思い知らされました。入会してもやめられず、飲みながらの例会通いを3年続けていました。 入会する前と後とで、お酒の飲み方も起こす問題の数々も変わらないのに、入会後の飲酒問題がより、私の心は傷つき空虚になり、 人も自分自身も信じられなくなっていきました。私は、断酒会入会=断酒成功=楽しい家族生活、という大きな勘違いをしていたのです。 アルコール依存症とは何かも知らず、勉強不足で他力本願、自分自身の怠惰に気が付きました。

 そんな私がしていたことは、入会したにもかかわらず飲酒を続ける父を責めたり、酒臭い父を無理やり車に乗せて例会場へ連れて行き参加させたり。 そのとき参加されていた方々の気持ちもまったく考えられず、不快な思いをさせてしまったかもしれません。

 そして、こういう状況に我慢できなくなると、必死に例会に参加している母に、私がこんなに辛いのにどうして離婚してくれないの、 そんなにお父さんが大事なの、とやはり責めることしかできませんでした。そんな時、母は決まってこう言いました『家族が大事なの、 もう一回お父さんを信じさせて』。

 こんな母とのやり取りを何度も繰り返すうちに、母の強さに心を打たれ私の心境は、 父から離れたいという思いから母のそばにいて支えようという思いに変化していきました。

 そして、私は就職活動をやめて両親が経営している会社に入社することになりました。大学は何とか卒業でき、両親の会社に入って現在まで6年勤めています。 そのうち、最初の3年はお酒との闘いでした。

 しかし、お酒のない生活は突然やってきました。父が仕事先の病院で心臓発作で倒れ、ブルガダ症候群という遺伝的な病気であることが初めてわかったのです。 そして、心臓発作の原因はお酒にあること、やめなければいつ死んでもおかしくないと診断されました。そのときから父は一切の飲酒をやめ、実行しました。

 その日までお酒に悩まされ、自分の無力さが悲しくて悔しくて泣かない日はなかったのに、突然、父が飲酒することで起こす問題を心配する必要がなくなったのです。

 それまでは、お酒に絡んだ生活の不安、仕事の不安、家族がばらばらになってしまう不安、不安や悲しみ以外存在せず、 どんな事態に襲われても対処できるようにと張り詰めていた心の緊張が、一気に弛んでいきました。

 その後は、私自身との闘いでした。お酒のない楽しい毎日が待っていると思っていたのに、気持ちの切り替えが上手にできず、 抜け殻のような数年間を過ごしました。不安材料がなくなったことが、逆に私を不安にしたのです。

 その不安を忘れるために仕事や遊びに没頭しました。楽しいはずのことをしても心が何も感じず、自分が何者だかわからなくなって、 さらに不安は強まっていきました。ある時、誰にも話せなかったこの不安を打ち明ける機会がありました。するとその人は、必ずまた感じられるようになる、 まだ少し時間が足りないだけだよ、と言ってくれました。その不安を打ち明け、人に受け入れてもらえたことが、ありのままの自分自身を受け入れることにつながりました。

 それから2年ほどたった現在、確かに感じることができるようになりました。楽しいことや嬉しいことを心に感じる素晴らしさを、父がアルコール依存症になる前の、 なに不自由なく過ごしていた私には気付くことができなかったはずです。

 父がアルコール依存症になる前、私は優しくて明るく楽しいお父さんが大好きでした。甘えれば甘えた分だけ愛情が返ってきて、 そこには安心しかありませんでした。その幸せが当然だった当時の私は、人を思いやる心に欠けていて、人と衝突ばかりしていました。

 しかし、私自身が父のアルコール依存症も含め、辛い経験をたくさんしたことで、人も自分と同じ心を持った人間だということを知る機会だったと思えるのです。 酒害体験は、辛いことのみでしたが、私自身にはマイナス面ばかりではなかったのです。

 父は、体にハンディを背負いお酒を失いました。でも、家族を守ることができたのです。私には、父の本当の辛さはわからないけれど、 話してくれることでその思いを共有できます。辛いとき、悲しいとき、もちろん楽しいとき嬉しいとき、そばにいる私たち家族に伝えてほしいと思います。 それが断酒の手助けになるかはわかりませんが、私は、父の気持ちを知りたいし、知ることで安心できるのです。

 辛い中でも例会に出席し続け父を断酒に導いてくれた母、何よりも断酒を継続し例会に積極的に参加してくれる父自身に、 感謝の気持ちを伝えたいと思います。ありがとう。そして、支えてくださっているすべての方々に感謝申し上げます。

以上